生物と無生物のあいだ

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物の違いは何かということを通して、生物の実態に迫った著者の体験記をもととした、生物学ミステリーです。
個人的に、こういったあることの構造を追求し、解明していく話というのは非常に好きなのでとても楽しめました。

生命とはなにか?それは自己複製するシステムである。

このように長らく生物学の世界ではDNAの発見いらい、生命について定義されてきた。たしかに、石は自己複製できません。

しかし、ウィルスの発見により、自己複製できるウィルスは、果たして生命なのかという問題もでてきます。著者も書いていましたが、あれが生命とは私も思えません。

エントロピー増大の法則に逆らって、一つの形をなし続ける生命という存在はいったいなんなのかということを考えさせられました。
人間も死ねば、肉体はその他の物質と同じくエントロピー増大の法則に従い、体は朽ち果て、最後は土にかえっていきます。
分子レベルでみれば、脳細胞も含めて私たちの体はものすごい勢いで、壊れてはまたつくれれていきます。
ちょうど、海辺に立つ砂の城は、風や波にさらされてつねにその砂の構成要素がかわっても、たえず砂の城の形をなしているようなものです。

海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてあるそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとは平衡ということである。
自己複製するものとして定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光を当てることによって次のように再定義されることになる。

生命とは動的平衡(ダイナミック イクイリプリアム)にある流れである。

その流れとは、まさに時間の流れであり、はげしい時間の流れのなかで、一つの生命という形をなすために、一つの固定した形では生命を維持することはできません。動的に激しく動きながら、一つの形を、ある状態として平衡に保っていかねばなりません。

生命とは、ものすごい流れのなかで、(しかも後戻りは決してできない)、ある動いている状態をさしているのだということを改めて知らされた本です。

どんなに嘆いても、喜んでも、決して後戻りしない生命という流れの上にのっているのだとしれば、過去を悔やむよりも、前へ前へといくのが、生きているということではないのでしょうか。

淀んだ水は濁るといいます。人間も、組織も、社会形態も、有る状態を固定しようとしたときから、崩壊がはじまるというのは、生命が、物質ではないからでしょう。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことの出来ない1回性というものがない。機械の内部には、折り畳まれてひらくことのできない時間という者がない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆な時間の流れが有り、その流れに沿って折り畳まれ、一度折り畳んだら二度ととくことの出来ないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。

リストラや、派遣社員が増える社会にどうしても違和感をかんじるのは、1回性の二度ともどらない生命という存在を、交換可能な機械のように扱っているからなのだと、このくだりを読んで再認識しました。

最後のエピローグの一行に、激しく感動。
未見の人は、ぜひ読んでほしい本です。

生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折り畳まれている。
それは決して逆戻りできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。

私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からずっと自明のことだったのだ。