生きる意味 上田紀行著
- 作者: 上田紀行
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/20
- メディア: 新書
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2006年度大学入試出題NO.1の新書だそうです。
生きる意味について考える人が増えてきた背景を、いろいろな方面から書いてありました。
戦後の高度経済成長期においては、
他の人が欲しがるような人生をあなたも欲しがりなさい
という価値観が、日本人を支配していた。
みんなが欲しがるものを欲しがることで、経済的利益も得られ豊かになっていった。それでいいではないかという価値観が日本人を覆っていた。
これは、現在経済成長期の国でも同じ事だと思います。
しかし、その価値観が極大化すると、他人が欲しがるものを手に入れそれを、資産化することで豊かになろうとします。
バブル期は、必要でもない土地、株、が投資目的で買われていきました。しかし、バブルがはじけると、欲しがっていると思っていた人は、どこかへ消えていってしまう。
悲惨なのは、自分が本当に欲しい物を買ったのではないにもかかわらず、そのせいで多額のローンを抱え込み、そして誰も助けてくれないことだ。誇りもなければ、金もない、そんな状態でどうやって「生きる意味」を見出したらいいのか。
そのことが悲惨なのであり、自殺も考えてしまうほどの苦悩をもたらすのだ。
しかし、バブルが弾けて後
「みんなと同じ欲求を持て」という命題に変わる価値観は現れてきてはいない
就職希望の学生の人気企業ランキングというのは、相変わらず一部上場、有名企業ばかりです。
志望理由と言ってもいろいろあっても本音の所は、「みんなが入りたい会社だから」というのが多いのではないでしょうか。
そして、経済的な背景とともに、日本の社会構造から生きる意味についての考察が続きます。
その場の意図や、効率性に自分を会わせようとするあまり、他者から受け入れられやすいように自己を透明化するのが、今や若者だけでなく日本全体を覆っている。
しかし、透明化することで自分の存在感を感じることが出来ない状態になる。
自分が何をやりたいのか、という自分にとって重大なことをこれまで問うことなしに生きてきた子、自分が何をやりたいのかよりも、いかにしたら周囲に受け入れられるかを優先してきたので、自分が何をやりたいのかも分からなくなってしまっている子。「透明な存在」は自分の存在感の危機に瀕することになってしまうのである。
自分自身の色を消し、においを消す「透明な存在」は他の「透明な存在」と交換可能でありかけがえのなさを喪失してしまった存在だ。そして自分自身をかけがえのない存在だと思えない。存在感を感じられない。それは人間の尊厳を最大限に傷つけられた状態なのである。
いじめに限らず、授業の場でも分かっていても発言をしない子どもが、小学校ではほとんどだそうです。だから、授業は崩壊しやすい状態になります。
どうして、発表をしないのかというと、目立ったり、自分の色を出すと嫌われると圧倒的に多くの子どもが思っているからです。
しかし、そうやって自己を透明化すると言うことは、言葉を換えると、どこにでもいる自分になると言うことであり、誰とでも交換できる。自分でなくてもいいという交換可能な状態に自分をすると言うことになる。
受け入れられるために自らを殺し、空しくし、そしてその結果、受け入れられるはずの対象から切られてしまう。それは最大の悲劇であろう
非常に痛ましい状態です。受け入れられるために、自分を消していった結果が、自分の尊厳を傷つけているのですから。
その根底にあるのは、本当の私は決して受け入れてもらえないという感覚です。
合理性、効率性を追求する社会、世間の目を気にするという日本社会にこれが入り込むと、より一層、その場の合理性、効率性を阻害するものは排除される。また排除されるべきものという空気が醸成されます。
その結果、その場に邪魔な自分の考えや、自分の色を消していこうと自分を、合わせていこうとします。それが、仮面をかぶっている状態から、やがて仮面をかぶっていることも分からない状態になっていきます。
そうなると創造性も欠如し、生きる意味が本当に分からなくなってしまいます。
それに対して著者は、NPOなどの中間社会に所属することで、個人の多様性を取り戻そうという方法を提唱します。
そのやり方が、「ワークショップ型」です。
教室の中は教師が中心で、自分はその教師の言うことをそのまま暗記し、教師からの高い評価を得なければいけないと多くの学生は思いこんでいる。だから教師の言うことや教科書の内容にはむしろ疑問を感じないように常に自己規制し、教室の中は頭もハートも使われない、極めて非創造的な場になってしまう。
そしてこうした非創造的な場を好む教師も少なくない。皆が息を詰めて、創造性を殺しているのに「私は教室という場をコントロールしている」と勘違いしている教師もいる。そのような教師は、学生が疑問を感じたり、違和感を感じてそれを表明すれば即座に潰しにかかり、成績を持ち出して恫喝するので、学生たちは会のように閉じて過ごす習慣を見につけてしまうのだ。
(略)
「オレなんか別にいなくたっていいのだ」という「空しさ」の感覚とともに抗議が行われているのだ。しかし参加型の場作りはその空しさの感覚を一転させる。自分が発言すれば相手がうなずく。「君のおかげでいままでみえていなかったことに気づかされたよ」と言われることもある。「君の意見には反対だよ」と言われたにしても、それは自分が否定されたのではなく、むしろ紛れもなく自分がここにいて自分の意見に世界は反応しているという「自己の存在の肯定」である。そして学生たちは「私がこの場にいることで、世界は変わっていく」という感覚を身につけていくのである。
前に立つ講師やリーダーの話を単に受動的に聞く従来型の「教室」型コミュニケーションではなく、皆が輪になって思いを語り合えるような「集い」型コミュニケーションである。また建前や論理だけに終始するのではなく、各人の体験や本音が引き出されてくるようなコミュニケーションである。
また宗教家に対しても
私は現在の仏教が真理を言葉で「説くもの」になってしまっていて、「苦悩」を「聴く」ものとなっていないことを指摘した。教えがたとえどんなに正しいものだとしても、誰にも同じ教えをただ説かれるのでは、私たちは自分の苦悩が聞き届けられたという実感は得られない。私という存在のかけがえのなさは無視され、むしろバカにされたように感じる
説くだけで聴かないコミュニケーションのあり方は、そうした私たちの空しさを倍加させるものであり、私たちが真に求めているものへ届かない
これだけ人間の価値観が変わり、自己肯定感が、限りなく低くなったとき、授業も、あるいはNPOでの活動、宗教家の接し方も変わらざるを得ないのだと言うことがよく分かる本でした。