書評・街場の教育論-就活のヒント(なぜ5秒で内定がきまるのか)

街場の教育論

街場の教育論

読書メモですが、タイトルに関係有るところを先に挙げます。

P209
でも「会って五秒」でどうして決められるんでしょう。そもそも、何を見て決めているんでしょう。これが就活をしている学生たちには理解不能なんですね。
でも、それはわかるんです。この人といっしょに仕事をしたときに、楽しく仕事ができるかどうか、それを判定基準にしているから。

これは非常によくわかります。受験とはちがう基準で決まるんですね。

以下は、それ以外でなるほど1と思ったメモ。(コメントは随時追記、現時点ではメモのみ)
個人的に非常に学びのある本でした。教育関係、子育て関係に関心のあるかたは、読むべき1冊です。お勧め。

p89
強要教育というのは、要するにコミュニケーションの訓練だと言うことです。
それもなんだかよくわからないものとのコミュニケーションの訓練です。共通の擁護や度量衡をもたないものとのコミュニケーションの訓練。
そうですよね。礼や楽は「存在しないもの」とどうかかわるかの技法です。
専門教育というのは、「内輪のパーティ」のことです。

p102
業界が「そういう人」ばかりになると、「パーティ」がますます閉鎖的になり、「内輪の符丁」がますます暗号化してきて、ついにはそこで何をしているのだか外からわからなくなってしまう。そうなると、やぱりもう誰も来なくなります。
いろいろな学問領域が不人気になりましたけれど、遠慮無く言えば、その理由の過半は「身内のパーティ」にかまけて中高生たちの欲望を喚起するという仕事を怠ったせいだと私は思います。

p105
日本の教育プログラムにいちばん欠けているのは、この「他者とコラボレーション」する能力の涵養だと思います。今の日本の教育の問題というのはもしかすると、ぜんぶがこの一つの点に集約されているのかもしれません。

p129
無知ゆえに不的確である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。「ジャック・ラカン」「教える者への問い」『自我(下)』p56
問題は「知っている者の立場に立つ」ということです。

p143
学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。
「述べて作らず、信じて古を好む」というのは『論語』の「述而篇」にある言葉です。
「述べて作らず」とは、「私が教えていることは、私のオリジナルではありません。私は先賢のの教えを祖述しているにすぎません」という意味です。

p158
それとは違う境位に、「外部」が存在する、そこに永遠の叡智がある。自分のいる世界とは違うところに叡智の境位がある。それを実感しさえすれば、「学び」は起動する。あとは、自分で学ぶ。
何度も言っていることですけれども、人間は自分がしたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
(略)教師自身が、「外部の知」に対する烈しい欲望に現に灼かれていることが必要である。

p175
日本の教育を「こんなふうにした責任」についは、自分の割り前だけ汗をかく。それに尽きると思います。
(略)問題はすでに起きてしまった。その船に乗り合わせた以上は、この事態について自分は直接の責任がないと思っても、この聞きを脱出するためには他の全員と協力しなければならない。

P180
危機的というのはこの場合のように、中枢的・一元的にコントロールし最適解を選択することができないような状況のことです。

P266
葬礼というのは、一言に尽くせば、「他者からのかすかなシグナルを聞き落とさないための気配り」のことです。それを病人ではなく、死者に対しても行う。
(略)それまでの死者とのかかわりの記憶を細部にわたって甦らせれば、死者が「私」にどうふるまってほしいのか、どういう決断を下してほしいのか、どう生きて欲しいのか、それを推察することは可能です。

P266
弟子に欠けているのは「自分に何が欠けているのかを言い表す言語そのも」だからです。私は自分が未熟であることはわかった。えれども、どういうふうに未熟であって、どうすれば未熟でなくなるのか、その道筋がわからない。それが本態的に「未熟である」ということです。
でも、メンターの前では、自分が未熟であると認める子が少しも不安ではない。メンターとはあmさに「その人の前では自分が未熟であると認めることが少しも不安ではない」人のことだからです。その人の前にいるとき、自分が未熟であると言うことは少しも恥ずかしいことではない人、その人の背中を見ながらあとをついて行くとき、自分が一歩一歩成熟への歴程を歩んでいることが実感される人。それがメンターです。(略)自分がどういうふうに未熟であるのか、自分は何を知らないのか、何がdけいないの過、何を言語化できないのか、それを主題的に考究してゆくことそれ自体が胸の高鳴るような経験であるように、メンターと弟子の師弟関係は構造化されてゆきます。